京阪宇治線宇治駅を出て、そのまま宇治川沿いにまっすぐ進んで府道7号線の信号交差点を渡り、駿河屋さんと通圓さんの間の道、朝霧通りを150メートルほど歩くと、道が二手に分かれます。まっすぐ進めば朝霧通りですが、左に進めば源氏物語聖地巡礼ルートの一つ「さわらびの道」に入って宇治神社や宇治上神社へ行きます。
その「さわらびの道」を50メートルほど進むと、上図の辻に出ます。左手の角に小さな神社が鎮座しています。
この小さな神社は、一般の観光客にはあまり顧みられていませんが、源氏物語ファンや宇治十帖の聖地巡礼者にはよく知られており、若い女性にも結構人気があります。
この神社は、末多武利(またふり)神社といいます。宇治市域においては、古くて確かな由緒を伝える有名な神社の一つであり、境内地がある街区の名前も「又振(またふり)」です。
神社の創祀時期は正確には分かっていませんが、かつて上図の社殿内に祀られていた木造神像の製作時期上限が藤原時代末期とみられるため、その頃には既に存在していたようです。
神像は、もちろんこの神社の祭神をあらわしていますが、いわゆる神様ではなく、平安時代中期に官僚として活躍した藤原忠文という、実在の人物を祭神としています。
平安時代の人物が神社の祭神として祀られる場合、大抵は何らかの理由で悪霊もしくは怨霊となって祟ったと信じられていた経緯に拠ったことが多いですが、この藤原忠文も例にもれません。参議、民部卿に任ぜられた高級官僚でしたが、「承平・天慶の乱」の際に征東大将軍に任じられ派遣されながらも、恩賞が無かったため、恨みつつ亡くなったとされています。
恩賞に及ばすとの判断を下したのは左大臣の大納言藤原実頼でしたが、その実頼の娘述子、長男敦敏が相次いで亡くなったため、これらが藤原忠文の呪詛、祟りだとされて恐れられたのでした。
この藤原実頼の意見に対し、弟の右大臣藤原師輔は恩賞を授けるべしと主張したため、藤原忠文は恩義を感じて後に自身の宇治の別業を寄進していますが、この別業というのが、今の末多武利神社の辺りに位置していたとされています。
藤原時代に宇治に別業を構えた貴族は数多く、多くは「宇治」の名を冠した通称で呼ばれました。藤原頼通は「宇治関白」と呼ばれましたし、「宇治大納言」と呼ばれた源隆国、「宇治左府」と呼ばれた藤原頼長などの例も知られています。そうした「宇治何々」の通称を持つ最初の人物が、「宇治民部卿」と呼ばれた藤原忠文でした。
おそらく、藤原忠文は、宇治に別業を構えた貴族としては早い頃の一人だったのでしょう。その生没年が873~947ですから、宇治が別業都市として形成され始めたのがその頃であったと見ることも出来るでしょう。
現地の案内板では、藤原忠文に関して怨霊であったことを述べていますが、実際にそうだったのかは疑問です。結果的に藤原実頼の小野宮流は没落し、藤原師輔の九条流は以後に兼家、道長、頼通と続いて摂関職を独占して隆盛に至りましたから、小野宮流と九条流との主導権争いに藤原忠文の怨霊が利用されたのが真相ではなかったかと思われます。
この藤原忠文は、現地では「またふり様」と呼ばれて親しまれています。社名がそのまま町名にもなっているのは、宇治市広しといえども、又振地区だけです。怨霊となって「悪霊民部卿」の異名も付せられた藤原忠文でしたが、悪霊というのは丁寧にお祀りすれば、地域を護る守護神に転じると信じられてきた昔にあっては、むしろ地元の人々にとっては大切な神様であったのだろう、と思います。
末多武利神社の地図です。