
岩倉町から越中町に入りました。上図は、越中町の公民館で、景観に配慮した古民家建築スタイルの外観にて新調されています。これに面する南北の通りは、倉吉のパワースポットとしても知られる「満正寺」に通じています。

公民館のある場所は、かつて久米郡の郡役所が置かれたところです。倉吉市域は、かつては伯耆国久米郡に属し、市制施行以前は久米郡倉吉町と呼ばれていました。
郡役所の建物は、明治期の一時期に小学校に転じましたが、まもなく近くの小学校に統合されたということです。歴史的には色々と移り変わりがあった倉吉ですが、それを考えると、街並みがあまり変わらずに保たれているというのは奇跡に近いです。
なお、この辺りは中世戦国期には城下の侍屋敷が多かったところです。守護職を山名氏が司って打吹山城の守護所に君臨した時代、守護代は近くの東伯郡湯梨浜町の羽衣石(うえし)城を本拠とした有力国人の南条氏が担っていました。その南条氏の有力家臣のひとり、山田越中守の屋敷がここにあったのが、越中町の名の由来です。
つまり、越中町あたりは中世戦国期からの街区の一つであると分かります。江戸期には鳥取藩の施策によって武家屋敷はなるべくまとめて一緒の防御区域に設定していましたが、それ以前は有力武家の屋敷が散在していた様子がうかがえます。城下に領地をあてがわれていたため、その管理支配の関係で、領地に近い所に屋敷を構えるのが普通でした。

越中町の南北を通る通りで、町域のメインストリートにあたります。東西を通る八橋往還と交わる街路で、付近には旅館や料亭が多く、北隣の越殿町には山陰一の規模を誇った遊郭がありましたから、いまでいう繁華街、歓楽街の様相を呈して賑わっていたそうです。

ちょっと寄り道して公衆トイレを利用しました。福祉会館の駐車場前にあり、バス停の待合所と防災用倉庫を兼ねています。こういう公衆トイレが各所にありますので、広い町並み散策の最中でもトイレに困ることがありません。倉吉観光の一つの特徴と言ってよいでしょう。

ぐるりと回る形で、福祉会館前の交差点から鉢屋川を渡って町並みに入りました。小さな橋のたもとに地蔵石仏がありますが、元からこの位置にまつられていたかは定かではありません。

近くには吉祥院という禅寺があります。正面に楼門を構えて立派なたたずまいですが、非公開ですので、見学は門前までとなります。この寺の開基である仙英禅師は、彦根藩藩主で幕末の大老を務めた井伊直弼が師事した名僧として知られます。

散策中に、見覚えのある子供デザインの標識を見かけました。おや、これは、と立ち止まりました。

間違いなく、「ひなビタ」の日向美商店街の入口にある子供の標識の元ネタです。コナミの公式画像では向きが逆になっていますが、下に「飛出し注意」とある表示もそのままです。
こんなところにも「ひなビタ」聖地巡礼スポットがあるわけですね。この子供の標識は、各地で見かけますが、倉吉の街中ではここだけだったと思います。付近の雰囲気も似通っていますので、原作者の方はここの街路も歩いて取材したのかもしれません。

ある店舗のなかなかに風格ある外装に心が動き、立ち止まり、近づいてみました。「結屋」とあるので理髪店と分かりますが、こんな外見の理髪店は初めて見ました。昔はこういうスタイルが一般的だったのかもしれませんが、いい感じです。

看板の櫛と簪のデザインがオシャレに決まっています。メニューを見ると価格がみんな高いので、いわゆる高級理髪店なのかもしれません。切る髪も乏しい庶民の私には縁がなさそうです。 (続く)